キャンディピンクは弧を描く

 その日の二人は、傍から見れば何の変哲もない普通の恋人同士だった。学生同士のカップルが休日に街にデートに出るというのはあまり珍しいものでもないし、男女が二人並んで歩き仲睦まじく談笑などしていれば、恋人同士だと思うのが見た者の普通の感想である。しかし事実は恋人同士でもなんでもなく、もはや友人という地位すら危うく、強いて言うのならば、獰猛な獣と、それを首輪と鎖だけで繋いだ飼い主というなんとも形容し難いものだった。
 ルルはふわふわとカールした薄紅色の髪を揺らして、くるりと鏡からアルバロの方に向き直った。その手には値札の付いたオレンジ色の可愛らしいワンピースがある。どうかな、なんてその手をちょっと持ち上げてみせれば、いいんじゃない、とアルバロが目を細くした。ルルはちょっと唇を尖らせて、ワンピースを戻した。買わないの、と問うアルバロの方を見もしないで、拗ねた声でルルは言う。
「だって、アルバロの意見っていつも適当だから、参考にならないんだもの。もう、次はアルバロと来ない」
「そんなこと言われてもね。俺の好みとルルちゃんの好みは違うし」
「言い訳禁止! 本当はどうでもいいだけでしょ?」
「良く分かってるじゃん」
 店を出る中で、アルバロは可笑しそうにくすくす喉を鳴らした。以前ならば、ルルはアルバロの表情や言葉の僅かな部分から、本心を見抜くなどと器用なことは出来なかっただろう。しかし今では、ルルは些細な嘘もすぐさま見抜き、しかもそれを逐一アルバロに報告する。それが足の裏が痒いような心地がして、可笑しかった。子猫が毛糸球ところころじゃれているのを見て楽しんでいたはずが、いつの間にか子猫が大人になってしまって、猫じゃらしにも指にも滅多にじゃれつかなくなってしまったときの心地、とでも言うのだろうか。寂しいような、しかしわざと素っ気無い部分も愛らしく思えるような、そんな心地だ。
 機嫌の良いアルバロに反して、ルルは完全に拗ねてしまったらしく、ぷいとそっぽを向いたまま、アルバロを置いてきぼりに早足で歩いていく。ルルの早足など、アルバロが少しでも歩幅を広げれば追いついてしまう程度のものなのだが、アルバロは少しだけ置いてきぼりになった。そうすると、ルルはアルバロの存在を確かめるために、横を見るふりをして、ちょっとだけ振り返る。そのときの、ちょっと不安そうに、ちらりと後ろを見るルルの目の色が、アルバロは好きだった。
 アルバロの姿を確認して、またふいと前を向いてしまう。アルバロはまたルルの隣に並んで、宥めるように手を握る。それをするりとかわして、ルルはアルバロの手の甲を八つ当たり気味にぺしりと叩いた。甘い飴色の目がちりりとアルバロを焦がす。甘ったるいだけではないそれがまた、なんとも言えず心臓を刺す。
「もういい、次にお買い物に来るときは別の人と来るもん」
「ふぅん。アミィとか?」
「アルバロには関係ないんじゃない?」
「ま、そうだけど」
 関係ない、なんて言い草にアルバロはちょっとだけむっとして、けれどそれを笑顔でコーティングして、興味なさそうな仮面でやり過ごした。ちらり、とルルの目を盗み見ても、気付いているのか、気付いていないのか知れない。いつの間にこんな読めない目をするようになったのかと思い、アルバロの頬には笑みがこぼれた。
 気付いているのか気付いていないのか、ルルは相変わらず不機嫌そうにふんと鼻を鳴らして、そうよね、関係ないわよねなんて繰り返した。
 そうして、暫しの無言のままに歩く。何を目的にするでもなく歩いていると、ルルがふとひらめいたように目を輝かせる。頭ひとつ分より高いアルバロのストロベリー・キャンディの色をした目を一度だけ見上げて、またすぐ前を向いた。踊るような足取りで、お得意の独り言にしては大きな声で言う。
「じゃあ、次はビラールに付き合ってもらおうかな」
「……殿下? なんで?」
「アルバロには関係ないでしょ」
「うん、ないよ。けど、興味はあるな」
「何に?」
 探るような、挑発的な甘色の双眸。舞うようにアルバロの前に出て、くるりとミルス・クレアのツートンカラーのマントを翻して立ちふさがると、アルバロは足を止めざるを得ない。無表情にルルの目をじ、と見返して、やがてにぃ、と目を細くして笑った。
 何に、などと、ルルは何をアルバロに言わせたいのか。まさか言葉の駆け引きが出来るようになるなんてと、アルバロは出会った当初の純粋無垢で無知な彼女を思い少し懐かしくなったが、今の方がずっと面白いと思いなおした。今の方がずっと鮮やかに、軽やかに、アルバロの心を躍らせる。
 立ち止まっていた時間はほんの数秒のはずなのに、そのときだけ時間が止まったかのように思えた。隣をすり抜けていくミルス・クレアの生徒や、痴話喧嘩かとか言いながらこっちを見る中年の男、鼻腔にはりつく甘ったるい香水を振り撒く若い女、その雑踏の中に紛れることなく、艶やかに愛らしく微笑む小さなルルの姿。全てが一瞬だけ止まってしまったかのように、アルバロの脳裏に焼きついた。
 アルバロはルルの手を取り、ちょっと気取った仕草でエスコートするように優しく引いた。迷わずアルバロの隣を歩き出すルルの笑みが満足げなものだったので、そこで初めて、アルバロはしてやられたと思った。しかしルルの小さな手のひらで転がされていたのだと思うと、不思議と悪い気はしなかった。ならば次はこちらが転がしてやろうと、負けず嫌いに火がついた。
 しゃんと背を伸ばして、もたれかかるでもなく、適度な距離感を保ったままに隣を歩くルルの結われた髪の根元あたりを見て、その髪を纏めるものが以前自分が贈ったものだと気付き、なんだか柄にもなく嬉しくなった。ありきたりな、安っぽいドット柄のリボンだった。
「ねぇ、ルルちゃん。やっぱり関係ないって言葉、撤回するよ」
「どうして?」
「今の俺はルルちゃんに飼われてる身だからね。飼い主さまの傍を離れるなんて、番犬失格だと思わない?」
「それとこれとは話が違うと思うけど」
「違わないよ。俺がいない間に悪い狩人が飼い主さまをたぶらかすかもしれない」
「ビラールはそんなことしないもん」
 さぁ、わからないよと肩をすくめるアルバロに、ルルはちょっとだけ小首を傾げたが、まぁいいけどとため息交じりに吐き出した。アルバロの言うことを一から十まで噛み砕いていたらきりがないからである。
 そういえば、と切り出すアルバロの双眸に、剣呑な光が宿る。わざとやっているのか、それとも隠し切れないのかはルルにも分からないが、彼の本性の片鱗を思わせる、危うい色だった。ルルはそれに怯えるでもなく、アルバロの双眸と似た色の髪を揺らして、なぁに、と小首を傾げてみせた。その幼く愛らしい仕草が計算なのか天然なのか、今となっては判断が付かない。
「なんで殿下なのさ? ノエル君とかラギ君とか、他にもいるでしょ?」
「だって、ビラールって女の子の服を選ぶセンスがとっても良いの。前に一緒にお買い物に言ったときも、すごく可愛い服を選んでくれたのよ」
「ふーん、殿下がねぇ」
「うんうんっ! 小物から何から、全部コーディネートしてくれちゃったの!」
 アルバロは頬を赤くして話すルルを見て、前に視線を逸らし、こっそりち、とひとつ舌打ちをした。油断も隙もないな、と口の中で吐き出して、ルルの手を強く引いた。バランスを崩したルルを抱きとめて、耳元で「それ以上喋るな」と低い声で囁いた。すぐルルの目に飛び込んできたアルバロの顔は笑っていたが、目の色はやはり危うかった。
 にっこりと人懐っこい目で、ルルを真似るようにちょっと小首を傾げて笑ってみせる。それが出会ったばかりの今思えば空々しい笑みそのままで、ルルは少しだけ背筋が寒くなった。
「良い子だね。大切な友人を亡くしたくないなら、そうした方が無難だ」
「何を怒ってるの?」
「怒ってなんかないよ」
「じゃあ、拗ねてる」
「それはさっきまでの君」
「今のアルバロもよ」
 アルバロはむっと目を眇めてルルを睨んでいたが、ぷいと逸らして、気まぐれのようにルルの手を引く。どこに行くの、と問うルルに、俺の行き着け、とだけ言って、大通りから少し逸れたところにある店に入る。ショーウィンドウには個人ブランドなのだろう、少し変わったデザインの、しかしルルの好みの範疇の可愛らしい服を着たマネキンが佇んでいた。
 店に入るなり、アルバロは普段のルルより少し大人っぽいチュニックとシンプルなショートパンツを手に取り、更にヒールの高めなブーツまで付けて、はい、とルルに手渡した。目を丸くするルルに、アルバロはくすくす笑う。
「なにぼーっとしてるのさ。早く着てみてよ」
「え?」
「ペットとしては、飼い主さまには自分好みの格好をしてほしいものなのさ」
 そう言って試着室に押し込まれたルルは腕の中にある自分のイメージとはちょっと離れた服を見て、素直じゃないんだからとこっそり笑った。サービスして髪も解いちゃおうかな、とリボンに手をかけ、アルバロから贈られたものだと思い出して止めた。
 試着室の外で、退屈そうに壁に寄りかかってルルを待つアルバロの顔は少し不機嫌そうで、しかし少し笑っていた。