Eat me!

 闇夜に浮かぶ火のような目は、それだけを見れば淡く愛らしい色合いをしている。しかし底に沈む紅は餓狼のそれにも似て、にも関わらず、それが求めるものはピンク色にも近い新鮮な血の滴る肉ではなく、ただひたすらに娯楽、快楽、悦楽と曖昧で不確かなものばかりだ。
 色を変えた薄色の髪も、埋め込んだままのタリスマンも、奇異にも映る奇抜な服装も髪型も全てがそのままに、書き加えられた首輪の魔力だけがアルバロの偽りの日常の中で尚ぽっかりと浮かんでいた。以前から愛用していた黒のチョーカーを撫で、まさか本当に首輪をするはめになってしまうとは思いもよらなかったと、薄い唇をにんまりと歪めた。それは純然たる笑みの形にはとても遠く、しかし憎悪や悪意といった類のものとは似ても似つかず、どこか曖昧な、そう、彼が愚直なまでに求める娯楽と同等なほど曖昧な形に収まって、それをどこかに分別するのはとても骨が折れそうだった。
 現状はアルバロにとってそれなりに楽しめるものなのだろう、文句も言わず以前のように勉学に勤しむ姿は彼本来の酷薄な黒とは掠りもしない。そしてそれを見るたびにルルはなんとも言えない色を瞳に湛えて、何も言わずに苦く笑うのだ。しかしそれも一瞬で、アルバロが何か言おうとする前に、ひらりとルルは長い制服の外套を翻してしまう。
 それが、自分の手のひらの上であっちにころりこっちにころりと転んでいたときのルルとは違うのだとまざまざ見せ付けられたような気がして、アルバロはその外套の端をはっしと掴む。何を思ったわけでも、離れることが何かを思わせるわけでもなく、ただその大人びた顔がどこか不快で、その理由を知りたくて、しかし、どこかで知りたくないような気もしていた。
 なぁにと振り返るルルの笑顔も声も、以前と寸分違わず無邪気で愛らしいものであるのに、白い瞼に隠された蜜色にどうしても以前と同じ色を見出せない。それはアルバロだけなのかもしれないが、他者など歯牙にもかけないアルバロにとっては自分が感じるルルの変化こそが全てだった。
「ルル」
「なに、アルバロ」
「最近、なにか可笑しくないか?」
「どこが? なにも可笑しくなんてないわ」
「……なら、いいけどさ」
「ふふ、可笑しいのはアルバロの方だわ」
「は?」
 アルバロが眉を寄せると、ルルは軽く踵を上げて高い位置にあるアルバロの下唇に人差し指をちょんと置いた。悪戯な笑みは右の瞼をぱちりと上手に落とし、偽りのアルバロを真似た形をしていた。
「ルル、なんて。ちょっと素が出てるわよ。人が沢山いるんだから、気をつけないと」
「……まさか君に、そんなことを言われるなんてなぁ」
 でしょう? と、わざとらしく小首を傾げて、ころころと喉を鳴らす。仔猫のように眦の僅かにつった目が細くなり、きらりと光るアルバロのタリスマンより幾分も美しく光る。
 ひとときも同じ色をしていないように見えるルルの目は、きっとそこらの他人には常に同じ色に見えているのだろうが、アルバロにはまるでルルの性質を体現するかのように淡く濃く色を変えていくように見える。ああこんなに毒されていたのか、とアルバロは目を細く細くした。
 マントを放してちょうだい、と困り顔のルルに言われ、ああ、と手を放そうとして、やっぱりやめた。折角捕まえたのだから、何かしら楽しんでから放さねば面白くない。そう思ったアルバロの心情を察していたのか、ルルはやっぱり放してくれないと思ったわと怒ったように外套を引っ張る。
 手からするりと抜けていく黒とオレンジの外套は、もうアルバロの手のひらには収まりきらなくなってしまったルルのようだ。ころりころりとアルバロが思う方に転がっていた小さな子は、いつの間にやらこんな顔をするまでになった。魔法の裏面を嫌というほど聞かせてやっても、まだ魔法が好きだと言って憚らないその図太い神経も見上げたものだが、アルバロはそれよりも、幼い目をした少女が同じ形のまま深い笑みを落とすようになったことに驚きと期待を隠せない。
 苛立ちと胸の弾ける感覚とが、一緒くたになってアルバロの目の中をぐるぐる廻る。予想も推測も勘も、アルバロの何もかもが通用しなくなってしまったルルの笑みの裏側が、知りたいようで、まだ苛々と迷っていたいような気もした。
 次々と新しい遊びへ、乗り換えては捨ててきたアルバロのどこか空虚な中身を、ルルの透明がゆっくりと侵食していく。毒されたか、と自らの胸に聞いてみても、返ってくるのは心臓の音ばかりで、明確な答えはどこにも見つからない。ただひとつ分かっていることは、隙間に染みていく透明の毒が、もう取り返しもつかない奥まで拡がっているということだけだ。
 アルバロはルルの髪の一房を指で掬って、ねぇルルちゃんと、以前ちらつかせた赤い毒薬にも似た甘ったるい声で、ごろごろ喉を鳴らした。いちご味の飴玉色の目を細くして、ルルの明眸に自らの色を映す。薄紅と橙は、当たり前だが混ざらなかった。 「週末、どこかに行かない? そうだな、先月オープンしたカフェはどうかな。ちょっと高いけど、蜂蜜のパフェは最高だって噂だよ」
「ほんと? 楽しみだわ、行ってみたかったの!」
「じゃあ、ちゃんと予定空けておいてね。ねぇ、ルルちゃん」
「なに?」
「早く、俺を口説き落としてね」
 どちらが先に好きになったとか、もうそんなことどうだっていいのだ。アルバロとルルの間には、どの他人も侵すことのできない絆があって、その糸で繋がっている限り、どう転んだって離れることなんてできるわけがないのだから。
 アルバロはにまりと唇に三日月を映して、にっこりとなんでもないように笑った。
 もう落ちているとか、まだ崖っぷちとか、そんなつまらない差はどうでもいい。ただルルがどんな楽しい言葉で追い詰め、近い未来の自分がそれに何と答えるのか、考えるだけで最高に甘ったるくて、下らなくて、楽しかった。
 真っ赤な顔で反論するのだろうかと、ルルの反応を楽しみに瞼を上げたアルバロが見たのは、ルルの満面の笑みだった。
「勿論! アルバロも、簡単に落とされないように、頑張ってね!」
 ガッツポーズまでしてみせるルルに、アルバロはぽかんと顎を落とし、やがてぷっと吹き出した。
「ははっ! ルル、お前って、やっぱ最高」
 週末が楽しみで仕方がないよ、と眦に浮かんだ涙を拭って、アルバロは読みかけの本を閉じた。透き通った可愛いピンク色の双眸は相変わらずぎらぎらと輝いていたが、その目が狙うものは、娯楽や快楽などと曖昧な靄ではなく、アルバロにとっては形を得た最高の娯楽ともいえるひとりの少女だった。
 透明な毒が、いつ自分を喰らい尽くしてくれるのかが楽しみで、アルバロは浮かばない紋章の刻まれた手の甲を撫でた。