Wolf's lover

「アルバロって嘘つきよね」
「今更?」
「今更だけど」
 ぽつりと小さな唇から落とされた一言は、娯楽室の穏やかな喧騒に紛れて、アルバロの耳以外に届くことはなかった。
 夕食を済ませた生徒が集う娯楽室はカードで遊ぶ者や談笑する者たちで溢れ、ルルとアルバロがカードで占領している一角などをわざわざ気に掛ける者はいなかった。ゆらゆらとランプの熱に揺らぐその向こうで、見知った顔がいくつも笑っているのが見えるが、皆々自分の娯楽に必死で、他を気にする素振りもない。ルルはそれを横目に見て、またすぐカードに集中した。
 無言のまま、ぱら、とカードが落ちていく音だけが聞こえる。あたりのざわめきは耳に入らず、ぱらりと乾いた音と、くつりと鳴るアルバロの声だけがルルの鼓膜を揺らした。やがてばらばらと手札をテーブルに散らして、ルルははぁと大きなため息を吐いた。アルバロは変わらずににこにこ笑っている。
「ああ、また負けた。アルバロ強すぎ」
「俺が強いんじゃなくて、君が弱いんだよ」
 バラバラに散らされたカードを、アルバロの長い指が束ねていく。その甲に赤い呪いの痕は見えない。ルルはその器用な指先をじ、と見ていたが、視線を少し上げると見える長い前髪に隠された伏した目にそれを移して、ゆれる薄い水色の髪を見ていた。
 根元まで綺麗に染められた、綺麗な色の髪だ。他の生徒が言うには、今までアルバロはころころ色を変えていたから、派手な水色も今更なんとも思わないと言う。前の色は確か薄紫と言っていたか、それとも黄緑と言っていたか。
 ルルはちょっと身を乗り出して、その髪に触れた。なぁに、と視線で問うアルバロをかわして、頭のてっぺんあたりから毛先まで、ずっと指を通した。ぱさぱさした髪は幾度か引っかかり、お世辞にも良い手触りとは言えなかった。
「アルバロの髪って、染めてるんでしょう?」
「これが本当の色に見える?」
「うん、一応聞いてみただけ。ねぇ、目の色は本当なの?」
 ガラスのカップによくあるような、透き通ったピンク色。ルルの髪にも似た、しかしずっと濃い色をした、何物にも形容しがたい、しかし綺麗な色の目。ルルはアルバロのこの色はとても好きだったが、アルバロ本来の黒髪には少し似合わないと思った。
 アルバロはその美しい色の双眸をぱちりと一度瞬かせて、さぁ、どうだろうねと瞼を下ろした。するとルルが嬉しそうにころころと喉を鳴らしてみせるので、アルバロは片目を開けてルルをちらりと見た。
「ふふ、じゃあ、本当の色なのね」
「どうして、そう思う?」
「だって、曖昧な言い方をしたもの。アルバロがそういう言い方をしたときは、嘘をついていないときなの」
 アルバロはちょっとだけ目を見開いて、くすりとひとつ笑った。つまらなさそうに頬杖をつく仕草がどこか照れ隠しのように見えて、ルルは可愛いと目を細めた。細い髪がアルバロの白い手の甲に掛かり、青味を増したように見えた。
 まっすぐにルルを見つめて、にやりと半月型に唇を曲げる。薄い唇はちょっとだけ乾燥していた。ルルはその笑顔に少し眉を寄せて、拗ねたような顔で他ため息を吐いた。もう一度、アルバロの髪に手を伸ばす。相変わらず作られた嘘の色は綺麗だった。
「アルバロは、何もかもが嘘だらけね」
「今更?」
「今更だけど」
 何の抵抗もされないのをいいことに、ルルはえいとアルバロの髪を結う紐を解いてやった。ばさ、と髪の束がアルバロの肩に落ちる。意外と長いんだとルルはまた頭のてっぺんあたりから下までずっと指を通した。細い毛先がランプの光に照らされて、白い糸のようにも見えた。
 アルバロは一度だけ、鬱陶しそうに肩にかかる髪を後ろに跳ね除けたが、ルルには何も言わなかった。だからルルは前髪を止めるピンも全て外してやった。からん、と古びた木の机に落ちるピンをアルバロは目で追っていたが、やはり何も言わなかった。
 派手な装飾を取り去ったアルバロは常よりなんだか落ち着いて見えて、ルルはもう一度だけその髪を指で梳いた。ぱさぱさした感触がなんだかアルバロらしく思えてきて、ルルは苦笑するように形だけ笑った。
 髪から手を離し、ちょっとだけ顔を離して全体を見てみる。こっちの方がアルバロらしいかも、と言うと、アルバロは唇だけで笑って、それは君が俺を知ってるからだよと言った。
「アルバロって、年齢も嘘ついてたんでしょ? イヴァン先生から聞いたわ」
「だって、同じ年齢の方が溶け込みやすいでしょ?」
「本当はいくつなの?」
 アルバロはちょいちょいと手招きをしてルルの顔を近づけさせると、小さい子供が下らない内緒話をするように、ルルの耳にこっそりと言った。
「23」
「嘘!」
「こんなことで嘘言ってどうするの」
 顔を離してやると、ルルは驚きに目を丸くしていた。やがて思案するように斜め上を見て、自分との年齢差を指折り数えてみる。わたわたと揺れる蜂蜜色の明眸が可愛らしくて、アルバロはちょっとつり気味の目を細くした。
 可愛いね、と口に出して微笑むと、ルルはその顔を見て、むっと頬を膨らませた。やっぱりアルバロは嘘つきねと常より少しだけ大人びた声で言って、ぷいと視線を逸らす。どうして、と問えば、ルルは拗ねた目でちらりとアルバロを盗み見て、軽く腕を組んだ。
 白い頬がランプの明かりでゆらゆらと光る。夜の騒ぎもピークを向かえ、あたりの雑音は増すばかりだ。アルバロは煩いなぁと一度だけそちらに目をやり、すぐにルルの方へ戻した。喧騒の中心よりも、ルルの拗ねた顔を見ている方が何倍も楽しいと思った。
「アルバロが本当に笑った顔を、一回しか見たことがないわ」
「……だったら、どうする?」
 存外よく見ているなとアルバロの心臓は踊った。その一回に、アルバロ自身も覚えがあった。あの日に、最終試験の終わりの日に、掛けられた予想外の魔法。その眠りから覚めたとき、どうしようもなく可笑しくて、笑いが溢れたのを、良く覚えている。ルルの言う一回とはそのときのことだろうと思った。そしてそれは外れてはいない。
 少し鋭くなったアルバロの視線に、ルルはぱっと花の綻ぶような笑顔を返して、アルバロの頬を両手で包んだ。
「だったら、私が変えてあげる。アルバロがいつでも本当に笑えるように、私が変えてあげるわ」
 アルバロはルルの頬を同じように包み返して、にやりと笑った。冷たい指が頬に触れて、ルルはほんの少しだけ肩を震わせた。馬鹿にしているときの笑顔だ、とルルは思った。
 距離があまりに近くて、ルルはもうアルバロの目しか見えなかった。
「23年間で固められた俺の価値観を、お前なんかが変えるって?」
「そうよ。23年後のアルバロはきっと本当に笑えるようになってるわ。私が変えるもの」
 挑発的にも見えるルルの笑みに、アルバロは目を丸くした。しかしそれも一瞬で、すぐに目を細くして口角を上げ、先に良く似た笑顔を作った。なに馬鹿なこと言ってるんだこいつって顔だ、とルルは思った。その顔があまりに予想通りだったので、ルルはもうひとつ笑った。
 23年間、殺されない自信があるのか、それともただの出任せか、アルバロには判断しかねた。品定めをするようにルルの明眸を覗き込んでみるけれど、答えは見つからなかった。
 顔だけは笑顔だろう。傍から見れば、甘い恋人同士が見詰め合っているように見えるだろう。しかし二人はまるで物語の宿敵同士のように睨み合い、互いに一歩も譲らない。隙を見せれば殺されるとでも言うかのように、じ、と相手の目を睨んでいる。
 アルバロはさらにぐいと顔を近づけ、ルルの顔を引き寄せた。互いの鼻が触れる。ふたりの間に横たわる机が邪魔で、腹が押されて少し痛かった。アルバロはちろちろと揺れる苛立ちを可愛い色の目に潜めたまま、常よりずっと低い声で言う。
「できなかったら、どうする?」
 ルルはそれに動揺することも恐怖することもなく、大好きなお菓子を前にしたときのようなとっておきの笑顔を向けた。
「私を殺して、死んでもいいよ」
 アルバロは目をぱちぱちと瞬かせて、ルルの頬から手を離した。ルルも追って手を離す。そしてふと表情を消すと、次には天井を仰いで呵呵と大笑した。それはあの夜に良く似た声で、ルルは驚きながらもこれは本当の笑顔だと思った。笑いを収めて、しかしくすくすと喉で笑ったまま、アルバロはルルのすこし驚いた顔を見た。
「平凡な言葉じゃ頷く気にはなれないけど、そんな熱烈なプロポーズされたんじゃ、OKしないわけにはいかないね。流石は俺のルルちゃん、普通じゃない」
 アルバロはもう一度ルルの頬に手を伸ばし、顔を寄せるとルルが息を吸う間にその額にキスをした。ルルが驚きに目を見開き、真っ赤な顔で人がいるのにと講義すると、アルバロは片方の瞼をぱちりと落としてウインクした。
 額を手で押さえて唸るルルを見て、アルバロは満足そうに笑う。頬杖をつきなおして、低くもなく、しかし常のようにふざけてもいない声色で、ルル、と名前を呼んだ。
「やっぱり、お前は最高に面白い」
 優しいようにすら見える微笑はきっとルルが見た三回目の本当の笑顔だったのだろうが、ルルは自分の錯覚かもしれないとそっと視線を逸らした。それにまた満足げな笑みを落として、アルバロはころりと喉を鳴らした。