他に何も要らないと言うと、あの人は必ず、ちょっと怒ったように眉を寄せて、どこか悲しそうな目で、エストは欲がなさすぎるのと僕の手を取る。慰めるように、桜貝の爪を飾った指で、僕の手を包む。
ルルは出会ったときからそうだったけど、勘違いが多い。僕が無欲だなんて、どこをどう見たらそう思えるのか、僕にはさっぱり理解できない。これはこのことに関して限定ではなくて、ルルの考えてることのなかで、僕が理解出来ることはいつもあまりに少ないけれど。僕が無欲だなんて、そんなことは絶対にない。僕はいつだって、ルルだけがいればいいと思ってる。それは例えばアルバロのような目に見える強欲よりもずっと性質の悪いものだって、僕自身が気付いてる。
あなただけがいればいい。いつしか僕の口癖になって、それを否定するでもなく、けれど肯定するでもなく、ひっそりと寂しい色を甘い目に湛えて笑うのが、ルルの癖になってしまった。あんな顔をさせたいわけじゃない。けど、僕はこれ以上に僕の想いを伝える言葉を知らない。いくら探しても、考えても、着飾った言葉はどれも綺麗じゃない。ルルに伝えられるほど綺麗な言葉を、今までの僕はあまりに持っていなかったんだと、つい最近思い知らされた。だから僕が知っている範囲で、ルルに伝えても大丈夫なくらい、綺麗な言葉。そして僕が、いつでも思っている言葉。
「あなただけが、いればいいんです」
「また、そういうこと言う」
ぷぅと頬を膨らませて、拗ねるふりをするルルに、だって本当のことですからとさらさらした髪を撫でる。その僕の手をやわく掴んで、ラティウムの澄んだ空気の中で生まれる黄昏の色をした目を向けて、やっぱり言うのだ。
「エストは欲がなさすぎるのよ」
「そんなことありません」
「絶対、そうよ。あ、もしかして私があんまり欲張りだから、反対にエストがこんなに無欲になっちゃったのかな」
「どんなとんでもない理屈ですか」
「だって、そうとしか思えないわ」
真剣な色を沈ませて、ルルはちょっとだけ眉を吊り上げた。僕はいつものようにさっぱり理解できないルルの言い分に思わず少し笑った。でもルルが言ったとんでもない理屈は、まるで僕とルルが最初から繋がっていたような言い方で、少しだけ嬉しかった。
風が湖面を撫で、ルルの長い髪を揺らす。くるくるとゆるくウェーブする髪は、ほんのりとお菓子のような甘い匂いがする。湖のほとりは、僕もルルもお気に入りの場所だ。こうして休日に足を運んでは、ルルの話を聞くのが、言ったら調子に乗るから本人には絶対に言わないけど、僕は好きだ。ルルに初めて会った場所だからというのもあるけど、もしも言ったら、これもやっぱり調子に乗るだろうから、言わない。
本気で、真剣に悩み始めてしまったルルの手をこっそり握って、僕はひとつため息を吐いた。ルルがいくら考えても無駄なことだ。だって僕はルルが思うように欲がないわけじゃないのだから。僕はいつでも欲張りだ。ルルが思っている以上に、底なしに。どれもこれも、全部ルルのせいだけど。
僕は諦めていたはずだった。変わらない現状に満足する程度には、諦めていた。なのに、ルルがいくら跳ねつけても、僕に関わってくるから駄目だった。僕が捨てたはずのものを、ルルが拾ってしまうから、僕は片付けが間に合わなくなって、しまいには根負けしてしまった。それが僕にとって良い事なのかは、今でも分からない。
いきなり、ぐいと顔を近づけて、ルルは僕の目を覗き込む。その意図が分からなくて、けど、目を逸らすことも出来なかった。僕はルルのねだるような、しかし何も求めないような目にはとても弱い。それをルルが知っているとは思わないけれど、時折、わざとやっているんじゃないかってくらいにじっと見つめてくるから、僕はどうしたらいいのか分からなくなってしまう。
こつんと僕の額に額を付けて、ルルは子守唄でも歌うような声で、僕の名前を呼ぶ。顔も忘れかけた、愛情も憎悪も浮かばない両親が付けたこの名前も、ルルが呼ぶためにあると思うなら、悪くはない。
僕と同じ、無属性だった女の子。僕と同じ、闇の属性を手に入れた女の子。そして、一歩間違えれば、僕だったかもしれない女の子。僕は今まで僕が生きてきた道がとても嫌いだけど、今は僕でよかったと思う。だって、こんな優しいルルが、こんな明るいルルが、僕が今まで生きてきたものと同じ道を辿っていたらと思うと、背筋が寒くなる。僕でよかった。ルルに出会えたから思えるんだろうけれど、本当に、僕でよかった。
「私、エストに色んな我儘を言ってきたわ。だから今度は、エストの我儘を言って欲しいの。色んなことを、エストに返したいの」
「そんなの、今更返してもらいたいなんて思ってません」
「私が返したいの」
「我儘ですね、あなたは」
「我儘なの、私」
「知ってます」
どれだけしつこいかも知ってる。一度決めたら何としても貫き通す、それが僕が持たない強さだということも、痛いくらい知ってる。
僕はため息を吐いて、降参です、とルルの肩を掴んでちょっと引き離した。ルルは少しだけ驚いた顔をしたが、僕の言葉にぱっと目を輝かせて、従順な子犬のように次の僕の言葉を待った。
「ひとつだけ、お願いがあります」
「なぁに?」
「出来るだけ長く、僕と一緒にいてください」
「それだけ?」
「ええ、それだけです」
なんにも変わらないと眉を吊り上げるルルに、なんにも変わりませんよと返して、僕はふいと顔を背けた。
なんにも変わらなくていいと思う。変わる必要なんてない。僕にはルルだけいればよくて、それは裏を返せば、ルル以外は依然としてどうだってよくて、ルルだけはいつでも独占していたいということ。これ以上の我儘なんてないと思うし、これ以上の欲もないと思う。
ルルがいないだなんて、考えただけで眩暈がする。ルルがいない世界なら、僕が生きる意味はない。ルルがいない世界を生きていく自信なんて、これっぽっちもない。もしも僕より先にルルが死ぬなら、その一瞬前に、僕を殺してほしいと思うくらいに。だから、できるだけ長く、僕のそばにいてほしい。僕のそばで、笑ってほしい。それだけでいい。
卑怯な言葉だと思う。ルルの自由を縛ってしまう言葉だと、知っている。でも僕はこれ以上の言葉を知らない。これ以上、綺麗な響きを持った言葉を、ルルという名前以外には見つけられなかったから。
「僕はあなた以外には、なにも要らないんです」
やっぱりルルはどこか寂しそうに笑って、僕の手を取って、けれど優しい声で、
「そんなこと言わなくたって、私はずっとエストと一緒なのに」
拗ねたような声で言って、僕を正面から抱きしめた。