Ray

 ラティウムの澄んだ夕暮れは、赤に、橙に、黄に、そして白から群青に変わるグラデーションが目に染みるほどに美しい。その美しい景色の中で、溶け込むでもなく、しかしぽっかり浮いてしまうでもなく、独特の存在感を保ったままにルルはうきうきと楽しげにまた足を踏み出した。それを追う影法師も、また踊るように低い草や平らに削られた石の上を滑っていく。歩くリズムに合わせて、ルルの大好きなお菓子のような色をした髪がふわふわと子猫の尻尾のように揺れる。
 その数歩後ろを、エストは目を細くして歩いていく。歩幅の違わない二人は歩く速度も変わらないので、その距離は遠ざかることも縮まることもない。変わらない距離を、エストは眩しそうな目で見ている。
 エストは様々な色に変わっていく空も、ルルは絶賛するけれど、さして美しいとは思わない。空高く飛ぶ小鳥の鳴き声も可愛らしいとは思わないし、仲睦まじいドラーグのつがいを見てもなんの感慨も浮かばない。ミルス・クレアの年季の入った城壁も、ただ古いと思うだけだし、その上に佇むガーゴイルも恐ろしいと感じたことはない。エストはこういったところが自分の欠陥部分だと気付いていたが、それを特に不便だとも他より不利だとも思ったことはなく、ただ、今までの環境のことも考え、自分がこうなのも致し方ないと思っていた。変わる気もなかった。
 しかし今は、唯一、とても美しいと思うものが出来た。エストはそれを自覚したとき、ああ所詮自分もただの人間なのだと思ったが、それはそれで、嫌な気はしなかった。
 数歩前を歩いていたルルが不意に振り向き、ねぇエスト、と意味もなく嬉しそうな笑みで呼んだ。立ち止まるルルについていけず、ばさりと広がるマントが羽のようだと思った。
 ルルは遅れて立ち止まったエストの隣に並ぶと、内緒の話でもするように声を潜めて、木陰に寝転がる一匹の猫を指差した。黒い毛並みに満月色の双眸を持った、どこにでもいそうな黒猫だった。
「エスト、あの子、覚えてる?」
「黒猫なんて、どこにでもいるじゃないですか。いちいち覚えてなんかないですよ」
「もう、違うよ。ほら、あのときの子だよ」
「……ああ」
 エストにとっては思い出したくもない出来事が幾つか散らばってはいるが、黒猫の腕に少しだけ残る傷跡は、確かに見覚えのあるものだった。不幸を呼ぶ黒猫、などと一時期騒ぎになっていた猫だが、そんなことはもう忘れたよとでも言いたげに、のんきな顔をして寝転がっている。
 黒猫はルルとエストに気付くと、甘ったれた声を出して駆けてきて、細いエストの足にごろごろ喉を鳴らして絡みついた。関わった当初もエストにだけやけに懐いていた黒猫だったが、猫は一月以上過ぎた今でもエストのことを忘れてはいなかったようだ。先と変わらず、高い甘えた声で鳴く。
「わ、可愛い!」
 ルルがその場にしゃがみこんで頭を撫でてやると、くるる、と軽く喉を鳴らして、額をルルの手に擦り付ける。柔らかな毛並みがルルの手の中を流れていく。ルルは可愛いと頬を赤くして猫を撫でる。猫はルルにも懐いているようだった。
 エストも、と強引な手に引かれるままにしゃがみこむと、長いマントの裾が地に沈む気配がした。魔道書を抱えたエストの腕のあたりにごつごつと頭をぶつけて、猫は親愛を示す。エストはエメラルド・グリーンの目をちらりと猫に向けて、はぁ、とため息を吐きながら仕方なしに頭を撫でてやった。
「この子、やっぱりエストが好きなのね」
「物好きな猫ですね。あなたにそっくりです」
「ふふ、きっと、自分を助けてくれたのがエストだってわかるのよ。ねぇ、猫ちゃん」
 背を撫でるルルの手に絡み付いて、やがてころりと転がった。ころころと身をくねらせながらルルの手に甘える猫は、エストから見れば自分よりルルに懐いているように思えた。金色の目を細くして、にゃぁ、と甘ったれた声で鳴く。子猫と成猫の中間のような、まだ細い四肢がルルの手を追って空を掻く。
 思いの外、長引いてしまった寄り道の最後に、ルルは猫の頭を撫でて立ち上がった。追って立つエストが、もういいんですか、と問うと、うん、と寂しげな笑みを浮かべて言った。
「だって、どうしたって寮で猫は飼えないもの。それに、エストは早く帰りたいでしょう?」
「まぁ、それについては否定しません」
「でしょ? 待たせちゃってごめんね」
「本当です」
「うん」
 ばいばい、と猫に手を振ると、猫はまるで言葉を解するように一声鳴いて返事をした。
 縮まることのない数歩の距離を保ちながら、ルルの踊るような影を目で追う。先の黒猫が影の中を走っているのではないかと錯覚するほど、軽快なステップで踊る影を、エストはただ魔道書を抱きしめて見ている。
 ルルといるとき、エストは特に魔道書を強く抱く。エスト本人も気付かぬ間に、気付かれてしまったらと恐れる心がそうさせていた。まるで魔道書を手放した瞬間にルルと過ごした全ての時間が失われるとでもいうかのように、エストの腕は魔道書を強く強く抱く。
 影に目を落とすエストの目の前に、不意にてらてらと光る甘い蜂蜜色が飛び込んでくる。ぐい、と顔を近づけたルルに戸惑いを隠さないまま、なんですか唐突に、とその肩を少しだけ押しのけた。
 ルルは大きな目をきょとんと見開いて、だってエストがぼーっとしてるから、と白い手を伸ばした。綺麗に揃えられた桜色の爪先がエストの前髪をよけ、エストより随分暖かい手のひらがぺたりと額に付く。エストは何のまねですかと目を眇めて言ったが、ルルはけろりとして、具合が悪いのかと思って、と手を離した。
「熱はないのよね」
「そもそも体調が悪いわけではありませんから」
「うーん、でもエストってすぐに無理しちゃいそうだから、熱がなくても調子が悪いとか、あるかも」
「ないですよ。本人がそう言ってるんですから」
「でも」
「ちょっと、考え事をしていただけです。なんでもありませんよ」
「うーん、なら、いいけど」
 未だ訝しげなルルに苦笑を落として、大丈夫ですからと目を見て言った。ルルのちょっと悪戯なアーモンド型の目はまだ疑念を消してはいなかったが、そっか、と言って引き下がった。エストが追求されることを好まないと知っているからだ。
 まったくひとのことばかり心配する人だ、とエストは密かに眉尻を下げた。本来ならば他人の世話を焼く時間など、ルルにはないはずである。魔法使いになれるか否かというルルにとってはなにより大切な試験が一ヵ月後に迫っているのだから、自室なり図書館なりに篭って勉学に励めばいいのだ。自分のことだけを気にしていればいいのだ。なのにルルはいつでもエストを気に掛けるから、エストの喉にはなんともいえない苦味がこみ上げてくる。
 双子の古代種が仕掛ける最終試験が簡単なものだとはとても思えない。しかし、エストはその試験が簡単なものであればいいと願ってしまう。パートナーを引き受けたからには、どんな難題を出されてもルルを合格させてやろうとは思う。しかし試験が簡単であれば、それに越したことはないのだ。もしもその真逆に、とても難しく、ルル一人では解決できないようなものだったならば、最悪の場合は魔力を解放しなくてはならなくなるかもしれない。それだけは嫌だと、口の中に広がる苦味にエストは心臓を掻き毟ってしまいたくなる。
 しかしどこかで、とても難しく、とても解決できないようなものであればいいとも思う。それは恐らく古代種がエストを本気で処分しにかかったという意味なのだろうが、今のままで終るのならばそれでもいいとエストは思っていた。今のままで、ルルにとって「ただの天才」のままで終るのならば、それでも構わないと思っていた。
(でも、僕はきっと、まだ希望を捨てられていない)
 今のままでなく、もしも魔力を解放して、もしも生き残ることができていて、もしもそれでもルルが今のままの甘い蜂蜜色を向けてくれたのならばと、そんな御伽噺のような結末を望む心が消えていかない。あまりに近くなりすぎてしまった。知らぬ間に、幾重にも塗り重ねてきた孤独を剥がされてしまっていた。その中身を知られることはひどく恐ろしかったが、もしもそれすら受け入れてくれたならと、目の前の無垢な少女への期待と羨望は燻る残り香のように消えてはくれない。
 ルルは踵でくるりと回るように向きを変えて、帰りましょうとエストのルルより少しばかり大きい手を掴んだ。風を受けてひらりと大きく広がるマントの裏地が、夕焼けを吸い込んで一層鮮やかだ。エストは捕まえられた手を握り返すでもなく、かといって振り払うでもなく、ただ、ひとつになったように見える影をちらりと見て、ルルのほんの少し赤らんだように見える眦を見た。
 エストにとってルルは光であり影だった。ルルが無垢であればあるほど、素直であればあるほどに自分の暗い根の部分が際立つようで、吐き気がした。しかし、ルルが無知なままに踏み込んでくるほど、図々しく居座るほど、誘蛾灯に誘われる愚かな蝶の成り損ないのように惹かれていった。今更どこがどう変わっても、蝶になどなれるわけもないのに。
「ねぇ、エスト」
「なんですか」
「私、エストがパートナーを引き受けてくれて、すごく嬉しい。私ね、エストとなら、どんな試験でも、なんとかなっちゃう気がするの」
「最初から僕ばかりに頼らないで下さいと、何度も言っているでしょう」
「そういう意味じゃなくって、エストが一緒なら、何でもできる気がするってこと。傍にいてくれるだけで、すごくすごく、心強いのよ」
「心持だけでなんとでもなったら、苦労しません」
「むー、そうだけど! でも、嬉しいの。私のパートナーになってくれて、ありがとう、エスト」
「……まぁ、お礼だけなら受け取っておきます」
「うんうん! 受け取ってくれると嬉しい!」
 えへへ、と照れたように笑って、ルルはエストの手を引く。数歩の距離は縮まってはいないが、繋がれた手が、二人の隙間を埋めていた。
 エストにとってミルス・クレアで学ぶことは大した意味があることではなかったが、もしも運命というものが存在して、全く信じてもいない神様の計らいとやらがあるとしたら、今ここでまだ自分が生きているという事実はきっとルルのパートナーになるためのものなのだと、エストは思った。生きていくことに意味などなく、今まで生きてきた中にも意味などなかったとしても、今このときに生きている時間だけは、確かに意味のあることなのだと思えた。たとえば一月後に迫るルルの最終試験で処分されてしまうのだとしても、命を落とす一瞬前に、ルルの目に涙の粒が光ったのならば、それで幸せだと思う。
 生きてきた全てだと思った。そして願わくば、生きていく全てになってくれればいいと思った。エストにとって、ルルは生きていく光そのものだった。
「ねぇ、見て見て、エスト!」
「なんですか」
「空がね、すごく綺麗! パルーの羽が散らばったみたい!」
「そのたとえはどうかと思いますけどね」
「え、そうかな?」
「ええ、とても。でも……綺麗ですね」
 そう言って、エストは長く伸びるルルの影をちらりと見た。そしてこの世の幸せを全て詰め込んだように笑うルルの笑顔を見て、こっそりとはにかむような笑みを落とした。
 ルルの言葉も、手のひらも瞳も唇も、全てが光だった。とても美しい、鮮やかな透明色をした光だった。影までも、輝いて見えるほどに。
「そうだ、エスト! あの黒猫に名前を付けない?」
「僕はわざわざ付けるまでもないと思いますが。どうせ、すぐ居なくなりますよ」
「それでもいいの。どんな名前がいいかなぁ。あの子に似合う名前がいいなぁ」
「そんなの考えたって、猫に自分の名前なんて理解できませんよ」
「どうせなら、可愛い名前がいいでしょ? そうだ、エストが付けてよ! あの子、エストのこと大好きだもの。エストが付けた名前なら、きっと喜ぶと思う!」
「なんで僕が」
「お願い!」
 真っ直ぐな目でじ、と見つめられたエストはぐ、と空気を飲み込み、分かりましたよと降参した。ちょっと考えてみて、しかし名前なんて付けたことがないから、どんなものがいいのかなんて、さっぱり分からなかった。
 わくわくとエストの言葉を待つルルの目をちょっと盗み見て、あの猫にすこし似ていると思った。猫の方が随分と冴えた目の色をしているが、明るい橙と突き抜ける黄は、どこか似ていた。
「……イール」
「イール? わぁ、可愛い名前!じゃあ今度から、あの子はイールね」
 何度も繰り返しその名を呟くルルに、エストはそっと微笑んだ。
 単純な名前だったが、絆になればいいと思った。処分されてしまったとしても、受け入れられなかったとしても、確かに今は存在しているルルとの絆の残滓として残ればいいと思った。EとLの、たった二文字の名前が。
 全ての事柄がルルに向かう。エストが耳にするもの、見たもの、感触すらも全てがルルに繋がって、透明に還るようだった。全ての意味や理由がルルになるように、エストは目を細くして空を見た。パルムオクルスの羽を散らしたようと言ったオレンジ色の空はいつもと特に変わらない空で、特に美しいとも思わなかったが、ルルの蜂蜜色の中に映りこむオレンジは、光を何倍にも増幅させて、なんだかひどく美しいものに見えた。