期待してもいい?
ぽかぽか暖かな光が、湖面を滑って畔をより一層明るく照らす。空の色を映した湖は薄青に揺れ、白い光をきらきら弾く。透明色にも近い水の色と青い匂いはユリウスの眠たい頭をさらに重たくしていく。
午前の授業は、教師の実験失敗で教室が全部鏡になってしまったため休講だった。紙が張られていた元は木製のドアまでも、ドアノブのような銀色になっていたから、教室内はまるでやりすぎたミラーボックスのように酷い状態なのだろうことが察せられる。やれやれと寝癖の跳ねる髪を撫で、寮に戻って午後まで研究の続きでもしようかと思ったユリウスの足が向かったのは、先ほどの思考に反して湖だった。
水をたっぷり含んだ風が、さらさらと少しだけ癖のあるユリウスの髪を攫っていく。なんでここに来ちゃったかな、と自分の足に問いながらも、ユリウスは木陰に腰を下ろした。そういえばこの木陰は見覚えがあるぞと見回せば、あのときより随分と視線が高いけれど、確かにルルに引っ張ってこられた木陰だった。
(うわ、思い出しちゃった)
悪い思い出なのではない。良い思い出だから、困るのだ。耳がかっと熱くなって、ユリウスは誰もいないよな、と思わず辺りを見回した。思い出し照れなんて恥ずかしすぎる、とマントの端で鼻まで隠した。
強引なルルに引っ張って、少しだけ昼寝をしたのはちょうど一週間ほど前のことだったか。眠たかった頭でも鮮明に焼き付いているルルの声や髪を撫でられる感触に、ぽかぽかの陽気に誘われていた眠気も彼方まで吹っ飛んだ。赤くなった顔を隠していたマントの端をやけくそ気味に放ってみたが、顔はまだ隠しておいた方がましなんじゃないかというくらい赤い。この時間に湖にいる生徒なんてユリウス以外にいないから本来ならば隠す必要なんてどこにもないのだが、ユリウスの精神衛生上の問題でである。
なにもしないでいると、またあの時のことを思い出してしまいそうで、ユリウスはごろりと寝転がった。瞬間、後頭部に刺さる尖った何かに、いたっ、と思わず短い悲鳴を上げて、ユリウスは後頭部をさすりながら飛び起きた。小枝かなにかかな、と振り向いてみると、押しつぶされた短い草の間に、ひし形の石がきらりと光った。透明なそれは敷き詰められた草の緑を透かし、蓮の葉の上に転がる雨粒のように綺麗だった。
なんだろう、とそれを拾い上げて日に透かしてみる。見覚えがあった。いや、実際にそれを見たことはなかったが、ユリウスが暇さえあれば読んできた多くの書籍の中に、とても似たものが載っていた気がした。確か、ラティウムの歴史とか観光名所とか、そういった類の本に。
「これ、メモリス?」
はじめて見た、とユリウスの表情は好奇心からみるみる笑みに変わる。メモリスはラティウムのある種の名産品であるが、その特性から、山ほど見てきた者もいれば全く見たことのない者もいる。ユリウスは後者であった。
メモリスは、見られても良い相手にしか拾われない。だから余程気心を許す相手が居ない限りは自分のメモリスは誰かに見られることなんてないし、自分も誰かのメモリスを見る機会なんてない。
ユリウスは日に翳したメモリスをくるくる回していじりながら、どういう仕組みなんだろう、魔力が篭った石なんだろうか、だとしたら媒介に使えたりするのかな、なんてあれこれと考えていたが、ふと、なんで自分がメモリスを拾ったんだろうと思った。メモリスが封じた記憶の主は、記憶を見られても構わないというくらい、ユリウスに心を許しているということになる。もしかしてマシューかなぁと、ユリウスは親指くらいのひし形の石を手のひらの上で転がした。
(あれ、でも、マシューじゃ可笑しいな)
メモリスは封じられた記憶を持つ者の属性に応じて色を変える。風なら緑に、土なら橙に、全ての属性を持つ古代種ならば透明色に。
「ん?」
ミルス・クレアの教師であり、古代種であるイヴァンとヴァニアがひとりの生徒に心を許すとは思えないし、ユリウスもそこまで心を許された覚えはない。イヴァンとヴァニアがそこまで自分を思っているなど、考えただけで寒気がして、ユリウスはそっと鳥肌の立った腕を擦った。
他に記憶を封じたメモリスが色付かない人物を考えてみても、ユリウスにはひとりしか思い浮かばない。古代種以外の、普通の人間で、属性を持たない者など、ユリウスは今までの短い人生の中でひとりしか出会ったことがない。
「これ、ルルのメモリス?」
空の青をそのまま透かす透明なメモリス。その記憶の持ち主は、きっとルルしかいないのだろう。人間で透明な色を持つ者など、このミルス・クレアではルルただひとりなのだから。
透明なメモリスをぎゅっと握り、ユリウスは木を背もたれにぼんやりと葉の隙間から落ちてくる光を見上げた。頬も耳も、先ほどと同じくらいに真っ赤になっている。もはや恥ずかしいと呟く舌も回らないのか、ショートした脳はもくもく灰色の煙を上げてきそうだ。
言葉に出来ないくらいには恥ずかしい、が、それ以上に嬉しい。この湖畔で、ルルの記憶を閉じ込めたメモリスがユリウスの頭の下に落ちていたことは、偶然でもなんでもなく、ルルがユリウスになら記憶を垣間見られても構わないと思う程度には心を許しているということだ。それがユリウスはとても嬉しい。しかし気付かないように見ないようにと視線を逸らしてきた想いが裏付けられるようで、すこし怖くもあった。
見ようか、見ないか、ここで見るのか、それとも寮に帰って見るのか、ユリウスはすこしだけ悩んだ。しかし、午後まではまだ時間がある。よし、と決意を固めて、ユリウスは瞼を落として額に透明のメモリスを押し当てた。魔力を流せば、閉ざされた黒の中に、まるで今、自分が見ているかのようにちょっと視線の低い世界が広がる。これがルルの見ている湖畔なのかと思うと、無性に気恥ずかしくなった。
くるりと一度、辺りを見回すと、木を背もたれに座る。今、ユリウスがいる場所と、ちょうど同じ位置に。弾んだ桃色の髪が目に掛かり、それを摘んで退ける桜色の爪先がちらりと見えた。
『そういえば、前にユリウスと来たのって、ここだったっけ』
ルルの考えていることが、ユリウスの頭の中に響いていく。メモリスを見るのってこんな感覚なんだ、とユリウスは舞台を観るのとも違う、不思議な感覚に感嘆の息を漏らした。まるでルルの中に入っていって、一時的にルルの目でものを見て、ルルの考えを共有しているような、そんな感覚だった。
『ふふ、ユリウス、可愛かったなぁ。一生懸命で、子供みたいで、本当に、どうしようもないんだから』
そんな目で見られてたのか、とユリウスはちょっと頬を膨らませた。子供扱いは心外だと言ったはずなのに。それに可愛いなんて褒め言葉と受け取っていいのか分からない。
『でも、ユリウスって本当にすごい。なんであんなに一途になれるんだろう。そのために体を壊しちゃうのは、考え物だけど……でも、だけど、あそこまで頑張ってると、なんだかかっこいいな。シンシア達が追いかけるのも、分かる気がする……って、何考えてるんだろ、私! これじゃあまるでユリウスのこと』
「ユリウス?」
「うわぁっ!?」
突然、肩に置かれた手に驚いて、思わずメモリスを取り落としそうになる。やっと捕まえたメモリスを両手で握り締めたままに振り向くと、飴色の目を丸くしたルルが両手をちょっと上げた降参のポーズで立っていた。
そんなに驚くとは思わなかったわ、と緩くカールした桃色の髪を揺らすルルに、う、うんごめんそんなつもりはなかったんだけどと持ち前の早口で言い訳をする。するとルルはくすくす笑って、そんなに焦らなくてもいいじゃないとユリウスの隣に腰を下ろした。
こっそりとポケットにメモリスを放り込んで、ユリウスは真っ赤になったままの顔でルルにどうしたのと問う。ルルは肩を竦めて、午前の授業がなくなっちゃったから、うろうろしてたのと眉尻を下げた。
「図書室に行こうかと思ってたんだけど、ユリウスが見えたから」
「そうだったんだ。俺も、午前の授業なくて」
「どうして?」
「教室が全部鏡になったんだって」
「あはは、そっちも大変ね。私の方は先生が羽虫になっちゃって。潰しちゃったら大変だから、教室に入れないの」
それからくだらない話などしていたら、いつの間にか太陽は空の真ん中で、寮の食堂が開く時間になっていた。しかし話途中で切り上げてしまうのも勿体無い気がして、どうしようかと一瞬だけ迷ったユリウスに、ルルは笑って立ち上がった。座ったままのユリウスを早く行こうと急かすと、なんでもないように
「もうお腹ペコペコ。早く食べに行こう」
とお腹を擦った。
え、と目を丸くしたユリウスに、もしかして食欲ないの、と心配そうに眉を寄せる。いやそうじゃないんだけどとルルを追って立つユリウスの手を取って、寮の方へちょっと早足で歩き出す。ルルの早歩きが、ユリウスの普通の速さとちょうど同じくらいだった。
「今日のお昼なんだろうね。あ、今、すごく卵のサンドウィッチが食べたいかも!」
「出るといいね」
「うん! あ、そうだ、ユリウス、他の誰かとお昼食べる予定とかあった?」
「え、ううん全然そんなのないよ」
「そっかぁ、よかった!」
えへへ、とはにかむルルの頬が、僅かに髪と同じ薄紅色に染まっているような気がして、ユリウスは思わず視線を逸らす。いやきっと俺の願望が映し出した錯覚だよきっと、と自分に言い聞かせてみるけれど、もはや淡くなくなった期待はむくむくと膨らむばかりだ。
まるで一緒に食べることが当たり前とでも言うようなルルの態度がくすぐったい。慌てて確認してくる焦った目と、答えを聞いたときのほっとした頬がひどく可愛いく見えて、眩暈のような感覚にユリウスはこれはもう病気なんじゃないかと馬鹿なことを考えてみたりした。
無意識で握ったのだろう、捉えられた左手がルルの柔らかな指に包まれて熱い。そこにだけ神経が集中してしまったみたいに、指先を流れる血の脈動すらも感じられたような気がした。高い位置で結われた猫毛の髪が、早歩きの足を追って、ちょっと遅れたタイミングで上下にふわふわ揺れる。それがまるで生まれてすぐの子猫の足取りのようで愛らしい。
空いている右手で、そっとポケットの中のメモリスを確かめてみる。ひし形の石はユリウスのポケットの中で、ルルの記憶をほんのちょっとだけ閉じ込めている。中途で打ち切られたあのセリフの続きが気になって仕方がなくて、午後の授業は出なくてもいいかな、なんて、ちょっと思ってみた。