涙声でラブコールを

 空は紺青に沈み、ふたつの輪を従えたまん丸の月が薄青に光る。星々は占星師に近い未来を告げ、その才を持たない者たちにも語りかけるように白に赤に瞬く。
 常より冷たい風を吸い込んで、ルルは寮の外壁に背を預けた。ざらついた石の感触が、後ろで組まれた手を擦る。ざり、と皮膚が擦れ、少しだけ痛かった。
 こんな日がいつか来るのだろうと思っていた。そのための覚悟もしていたつもりだったのだが、いざこの場に立たされれば、塗り重ねてきた覚悟はどこへやら、膝小僧を擦り合わせる足は逃げたくて仕方がないとルルを急かしている。しかし逃げるわけにはいかないと、ルルは分かっている。自分の気持ちをきちんと告げなければ、彼女にも失礼だろうと直感的に知っていた。それでも逃げたい心はあるようで、相反するふたつに揉まれて、ルルの視線は地をさ迷う。
 薄い星の明かりに照らされて、シンシアの細い金髪がきらきらと光る。僅かに伏した眼差しを飾る長い睫毛は髪と同色に輝き、涙を零さぬようにと必死に瞬きを繰り返す。猫のそれより眦のつり上がった目はきつい印象を与えがちだが、今のシンシアは常の高飛車な態度とは反対に、どんな女の子よりも儚げにすら見えた。
 言葉を探すように、または震えそうな自らの声を許せないように、シンシアは沈黙を重ねていく。ルルは俯いたまま、もう何分過ぎたか分からない沈黙の中で、ひたすらにシンシアの言葉を待っている。火蓋を切るのは自分ではいけないのだと分かっていた。
 やがて、なんであなたなの、と掠れたような潤んだような声が落っこちた。同時に、一粒だけの水が寮の玄関外に敷き詰められた石の上に跳ねて、ぴん、と微かな音がした気がした。なんで、なんでですの呪文のように繰り返される言葉を、ルルは喉の奥で噛み締める。覚悟していたとはいえ、胸が痛かった。
 シンシアがユリウスを好きなことは、このミルス・クレアで知らない人なんてユリウス本人しかいないのではないかというほど、周知の事実だった。むしろ何故ユリウスが向けられた好意に気付かないのか不思議なくらい、シンシアはユリウスが好きだと前面に押し出していた。それはルルがミルス・クレアに編入してきた直後から知らされていたし、ふざけているようで、シンシアがいつでも真剣にユリウスを好きだったことも知っていた。
「どうして、あなたなんですの? あなたのような、ぽっと出の田舎娘が、どうして私に勝るところがありましたの?」
「シンシア」
「お黙りなさい! ルル、全部あなたのせいですのよ、あなたさえいなければ……なんで私が、あなたの前で泣かなければなりませんの!?」
 眉尻を下げて、ルルはつられて零れそうになる涙を抑えた。シンシアの気持ちが痛い。知っているから、知っていたから、つらかった。シンシアの言葉を遮って、自分の言いたいことだけを彼のような早口で叩きつけて、さっさと走って逃げてしまいたかった。けれど逃げてはいけないんだと、ルルは拳を握り締めた。最終試験のときも大変だったけど、今はもっと辛いかもと場にそぐわないことを考えてみたりした。
 ルルだって、ユリウスのことが大好きなのだ。シンシアにも負けないくらい、ルルだってユリウスが好きなのだ。このラティウムで出会って、ルルの可笑しな魔法を面白いと笑ってくれたユリウスのことを、日を重ねるごとにルルは好きになっていってしまったのだ。もうシンシアを応援してあげたいなどと思えていた、半年前とは違ってしまった。だからルルは逃げずに、このことをシンシアに告げなければならない。そうしなければシンシアに失礼なのだと思うのだ。
 シンシアの声は啜り泣きの色を濃くし、叩きつけるようにルルに向けられる。ぽろぽろとシンシアの頬を滑っていく涙が、石に吸い込まれては消えていくが、その様子はとても暗くて、ルルの目では捉えきれなく、ただシンシアの青い目から落ちる涙の粒だけが網膜に張り付いていく。
「どうして、どうして私が泣かなければなりませんの!? 私の方がずっと、ずっと前から、ユリウス様のことを好きだったのに、どうして私が泣いていますの?」
「シンシア、あのね」
「納得いきませんわ、私の方が、あなたなんかよりずっとずっと、たくさんユリウス様を好きですのに!」
「わ、私だって、負けないよ。私だって、ユリウスのことが大好きなんだもん!」
「生意気ですわ! 私より後からユリウス様に出会ったくせに、私よりユリウス様が好きだと言いますの?」
「後からとか、関係ないもん! そりゃあ私はシンシアみたいに特別美人じゃないし、成績だって悪いけど、好きな気持ちだけは、シンシアにだって負けないもん!」
「言いますのね……! 私は気持ちだって、あなたなんかに負けているつもりはありませんわ!」
 シンシアが勢いに任せてルルの両肩を掴む。ルルはシンシアのアイスブルーの目をじっと見つめて、きっと眦を上げた。ルルだって引くつもりはない。これだけはシンシアにも誰にも負けないんだと、胸を張って言える自信があった。
 ミルス・クレアに来て、ユリウスの危なっかしさに世話を焼いているうちに、本当に魔法が大好きなんだとか、意外とおっちょこちょいだとか、そんなユリウスの側面がころころ転がり出てきて、そのひとつひとつにルルは惹かれてしまって、その積み重ねた想いの大きさは、たとえ時間で換算すればシンシアに敵わなくても、重さなら負けない自信がある。
 だからルルは、シンシアに言わなくてはならないのだ。絶対に負けないからと、宣戦布告をしなければならない。いつまでも逃げていては、シンシアに失礼だから。
 言い合いをしている内に、ルルの目にもみるみる涙が浮かんできて、しまいにはふたり揃ってぼろぼろ顔を歪めて泣いてしまった。声を上げるのはみっともなく思えて、堪えた声が時折ふたりの喉から染み出す。
 ルルがずずっと鼻水をすすると、泣き顔のままのシンシアがぷっとふきだして、涙を拭いながらころころ笑った。
「そんなに音をたてるなんて、下品ですわ。やっぱりあなたなんかじゃ美しいユリウス様とつり合いませんわね」
「いいもん、下品で。シンシアだって、顔ぐしゃぐしゃじゃない」
「私はいいんですの。涙は女の武器と、ヴァニア先生も仰っていましたわ」
「今、私たちしかいないんだから、武器にならないよ」
「こ、細かいことを気にしてはいけませんわ!」
 涙のせいではなく、顔を真っ赤にして乱れかけた髪をいじくるシンシアに、ルルもくすくすと笑って、ルームウェアの袖で涙を拭った。
 それを見咎めたシンシアが、ついと白いハンカチを差し出して、洗って返して下さるのなら貸してあげなくもなくてよ? と視線を逸らしながら言った。ルルは嬉しくなってしまって、ありがとう、とそれを受け取ると、顔に張り付いていた涙を拭った。お言葉に甘えて、と鼻をかもうとしたルルを睨みつけて、それをしたら許しませんからねと鋭い声で制した。
 やっと落ち着いたふたりの間に、数十分前とは違う、なんだかこそばゆいような沈黙が落ちる。そのまま二十秒くらい過ぎて、破ったのはやはりシンシアだった。
「私、負けませんわ。今はルル、あなたのものでも、絶対に振り向かせてみせますわ」
「私だって、負けないよ。シンシアに取られないように、もっともっと好きになってもらえるように、頑張るもん」
「じゃあ私は、あなたよりもっともっともっと頑張ってみせますわ」
「う、じゃあ私だって!」
 また言い合いになりそうな空気にはっとして、ふたりは顔を見合わせて笑った。きりがありませんわね、とシンシアが苦笑して、そうだね、とルルが笑った。
 ふたりとも、まだ赤い涙の跡が残る頬のまま、並んで寮まで帰る。シンシアは「こんなみっともない顔でうろうろ出来ませんわ」と部屋へ帰り、ルルは少し迷ったが、第二自習室へ行ってみることにした。
 本当は、今夜はユリウスと自習室で勉強するつもりだったのだ。それがシンシアに呼び出され、そちらの予定を優先した。パピヨンメサージュであらかじめ連絡は入れておいたが、やはり一言謝っておこうと思った。けれどそれだって口実で、自分に対する言い訳で、本当はただ、ルルが今、ユリウスに会いたいだけだった。
 ユリウスはやはり自習室にいた。ルルではとてもひとりで解けないような課題を、すらすらと解いていく。ルルはちょっと離れたところから、本に視線を固定してるユリウスに向かって「ユリウス!」と名前を呼んだ。ちょっと嬉しそうに「ルル」と顔を上げたユリウスの顔が、二秒ほど停止して、どうしたのと焦りに変わる。
 涙の跡がまだ薄っすら残っているルルの頬を撫でて、何かあったの、魔法でまた失敗したとか、それとも俺がなにかしたかな、なんて的外れな質問を矢継ぎ早に浴びせる。ルルは眉尻を下げて笑い、なんでもないのと頬に添えられたユリウスの手を撫でた。
 ルルはそのユリウスの手を両手で握って、夜のような濃い紫色をしたユリウスの目をじ、と見た。なに? とでも言いたげなユリウスの目に、ルルの姿が映る。ルルは映っている自分を睨みつけて、あのね、と決心したように言葉を紡いだ。
「私、頑張るから。もっともっとユリウスに好きになってもらえるように、頑張るから! だから、ユリウスもずっと私を好きでいてね!」
「え?」
 目をまん丸にして、ユリウスはまた二秒ほど停止した。心なしか誇らしげなルルに、やがて顔を真っ赤にしたユリウスが、あのその嬉しいんだけどすごく嬉しいんだけどでも、ともごもご言う。なぁに、と小首を傾げたルルに、ユリウスは真っ赤にした顔を俯かせる。
「なんていうか、ここ、自習室っていうか……嬉しいんだけど、本当に嬉しいんだけど、さ、さすがに恥ずかしいかも……」
「え?」
 今度は、ルルが二秒ほど停止した。あたりを見回してみれば、視線がなんだかこちらに集まっているような気がする。端っこの方で机に突っ伏してかたかた震えている赤髪は、恐らく必死で笑いを堪えているラギだろうと思われる。おやおや、と肩を竦めるアルバロの横を、はぁとため息を吐いたエストがすり抜けていった。
 え、あ、うと謎の言葉を吐き出して、ルルはユリウスに負けないくらい真っ赤な、熟れた林檎のような顔をした。ぐるぐると思考が真っ白になっていくのが分かって、あたりの音が消えていく。それでも耳の隅で「ぶはっ! もう我慢できねぇ!」とラギが堪えきれず腹を抱えて笑い出す声が聞こえた。
「え、あ、い、今のナシ! そ、それじゃあ私もう行くね、うん! ユリウスまた明日!」
「え、あ、うん、また明日」
 全力で走って、女子寮に駆けていくルルの背後から、どっと溢れる笑い声と共に、お前何したんだよとか、ルル泣いてたみたいだぞとか、くそぉバカップルめとか、ユリウスに対する質問なんだかなんなんだか分からない言葉の雨が聞こえてきたけれど、聞こえないふりをして、ルルはアミィの待つ部屋へ走っていった。