明日の話をしよう

 人の気配がない場所は、幼いころからいつでも心が安らいだ。彼が愛する祖父母といるときとは違う、例えば祖父母の傍らにあるときが理性的な安らぎならば、森深くにあるそれは本能的な、遺伝子に語りかけるような安堵感だった。
 けれど、決して人が嫌いなわけではなかった。確かに人混みは嫌いだったが、それでも、人という生き物そのものを厭う理由には成り得なかった。
 柔らかな芝の上に寝転がって、ゆらゆらと流れる薄青の雲を眺めると、まるで空すら従えたような気分になって、ラギはぐいと腕を突き出してみるが、細い青年の掌は雲を掴めるはずもなかった。代わりにラギが捕まえたのは(それは捕まえられたのかもしれなかったが)白く小さな指だった。
 ラギを敬い集まる動物たちの中に紛れて、まるで異質の花色の髪がふわりと揺れた。日に透かした蜂蜜レモンのキャンディのような、ころんと愛らしい目がぱちりと瞬く。
「……なんで、てめぇがここにいんだよ」
「ラギ、何してるの?」
「まず答えろよ。とことん、ひとの話を聞かねぇやつだな」
 はぁ、とあからさまな嘆息を漏らして、よっ、と軽い掛け声と共に上体を起こした。腹に乗っていた小鳥が、ちち、と声をあげて飛んでいった。ルルはそれを視線だけで見送って、ラギの細長い瞳孔の刻まれた、爬虫類を思わせる目を覗き込む。
 下から真っ直ぐに覗き込まれたラギは思わず顎を引いて、なんだよ、とほんの少しくぐもった声で言った。
 ルルは頬を緩めて笑み、あのね、と物語をねだる幼児のようなとろける声色で、先のラギの質問にもルルの質問にもかすりもしないことを言った。ラギは目を眇めてそれを聞いた。
「ねぇ、ラギって私よりずっと長生きなのかな?」
「……はぁ?」
 馬鹿馬鹿しい、と言いたげに顔を歪めて、実際に「バカか」と口に出した。
 普段ならばそれで腕を振りながら「バカじゃないもん」なんて訴えてくるルルだけれど、今度ばかりは不思議そうに小首を傾げて、そう? なんて唇を僅かに尖らせた。ラギは投げやりにそうだと返した。
「なんだって、俺の寿命なんかが気になんだよ」
「……なんとなく?」
 なんだそれ、と口の中だけで呟いて、ラギは隣に座るルルの足の上に落とされた、先の小鳥からの贈り物を口に放り込んだ。甘い果汁が、小さな実からじわりと染みだし、あまりの甘さに少し喉が渇いた。
 確かに、ドラゴンは古代種と同様、人間より遥かに長寿である。幾百、時には幾千もの時間を積み、老成したドラゴンの魔法能力は古代種にも勝るとすら言われる。しかしそれ故に、他種と結ばれるドラゴンはひどく少ない。古代種は交友こそ深いものの、血を重んじるためにドラゴンとの混血児が生まれることを嫌い、人をはじめ他種族はドラゴンに比べて生きる時があまりに儚い。
 ハーフドラゴンであるラギがどのくらいの時間を生きるのか、それはラギ本人にも分からないことだった。今のところは、人と同じ速さで歩みを進めているものの、ドラゴンとして生きることを胸の内で確実にしたその時、時間の流れがどれだけゆっくりとしたものに変わるのか、ラギにも分からない。
 そんなことを考えていたラギの眼差しが、ふと影を帯びる。悲しむのは常にドラゴンだと思った。たとえば人を愛し結ばれたとして、添い遂げることができるのは常に人間だけだ。置いていかれたドラゴンは、それでもまだ長い時間を生きる。長いときの中でいつか顔も忘れてしまうかもしれないが、確かな悲しみといつか忘れてしまう恐怖は、いつもドラゴンを苛むのだろう。ラギの父親がそうだったのかどうかは、ラギには知れないことであるが。
 ハーフドラゴンであるラギがどれくらい生きるのかは分からないが、ドラゴンより短く、しかし人よりは長いのだろうと思った。どちらにせよ、自分もいつかは置いていかれる側なのだと思った。自然に、ごく自然にそう思った。
 暗い眼差しを伏せたまま、黙ってしまったラギの顔を、ルルはこっそりと覗き込んで、悪戯っぽく目を光らせると、ぎゅっと鼻を摘まんでやった。驚いたラギの肩が跳ね上がり、その拍子に背もたれにしていた木に頭を打った。後頭部を抱えて悶絶するラギの安否を、ルルが焦った声で問う。
「だ、大丈夫? まさかそんなにびっくりされるなんて、思ってなくて」
「おっまえ……この俺が珍しく真面目なこと考えてたってのに」
「だってラギ、すっごくらしくない顔してたんだもん」
「お前がさせたんだろうが」
「……うん?」
「あー、もういいわ、うん。俺は期待なんてしてなかった」
 自分に言い聞かせるように、何度も頷く。ルルはそんなラギを大きな目をきょとんとさせて、ちょっと小首を傾げて見ていた。
 ラギが不機嫌な目でルルを睨むと、真っ直ぐに切り揃えられた前髪を揺らしてにこりと笑った。それについつい脱力して、はぁ、と疲れたようなため息を落とした。
「つーか、なんでそんな突拍子もないこと聞くんだよ」
「今日、ヴァニア先生が言ってたの。ドラゴンはとっても長生きだって。だから、ラギはどうなのかなぁって思ったの」
 あのクソババァ、と心の中で毒づいて、ラギはち、と舌打ちをした。全く余計なことばっかり教えやがってと、このときばかりはルルの無邪気な好奇心を恨んだ。
 ラギだって出来ることなら答えてやりたいが、ラギ自身が持たない答えをどうやって教えられようか。それに、予測の域を出ない考えを口にしてしまえば、今まで短い時間に重ねてきた思い出や、淡い想いすらも泡と消えてしまう気がして恐ろしい。期待が全くないわけではないが、言葉にして失う可能性と天秤にかけてみれば、結果は火を見るより明らかだった。
 しかし、そんなラギの心情を察せるほどルルは賢いわけでもなく、素直にそれを告げてしまえるほどの勇気をラギは持たない。だからラギは適当に、そうかよ、と是とも否ともとれない言葉だけを返した。
 するとルルはくすくす喉を転がして、陽光を玉にした目でラギを見た。風に流された髪の一房を鬱陶しげに払って、歌うように能天気に言う。
「でも、よく考えてみたら、そんなのどうでもいいかも。だってラギは、いくつになってもきっとラギだもん!」
「なんだ、それ」
「だってそうでしょ? ラギの方が長生きだからって、ラギがラギじゃなくなっちゃうわけじゃないもん。私、今のラギが明日もラギでいてくれれば、それでいいわ」
 微笑みがあんまり真っ直ぐだから、ラギは思わずその言葉の紡がれた唇を凝視して、すぐ視線を逸らした。ふっくらとした薄紅色の唇が吐き出す言葉はいつも能天気で、向こう見ずで、具体性の欠片もない。けれど、それがひどく心地よい。
 ルルの言葉はいつでも的を射ている。完全な解決にはならないかもしれないが、完全な解決法なんてはなから存在しないのだから、ルルの言葉はラギの中で確かに正しかった。それを認めてしまうのはなんだか負けたようで悔しい気もしたが、確かに、ラギもそうだった。先に死ぬとか生きるとか云々ではなく、ただ明日もルルがルルのままで能天気に笑っているなら、それがいいと思った。
 照れ隠しに、ラギはルルのこめかみあたりを軽く拳で小突いて、
「……バカか」
とだけ絞り出した。
 ルルは小突かれたにも関わらず、なんだか嬉しそうにえへへと笑い、先のラギを真似るようにごろりと芝の上に身を転がした。ちょっと覗き込むラギの燃える火の先端のような色をした目を見つめ返して、その頬を包みたいように手を伸ばした。
「ラギが明日もいてくれれば、それでいいの」
「あー分かった、いてやるよ。それでいいんだろ?」
「うんっ!」
「ほんっと、幸せな頭してるよな」
 呆れ顔でため息を吐くラギに、ルルはやはりあまやかに微笑んだ。芝に散ったルルの髪を指で掬い、絡んだ木の葉の欠片を取ってやる。子猫のように目を細くするルルに、ラギはもう一度、意味もなくバーカと言った。