ラギ君の憂鬱
おっちょこちょい、という言葉では表現しきれないほどなのだ。おっちょこちょこちょいくらいに増幅させてやらないと、彼女のそれは言い表せないのだろう。それほどに、彼女は年齢相応の落ち着きを持たず、慎みという言葉の意味も大して理解しておらず、ついでに無鉄砲で猪突猛進だ。それは彼女が転入してきてちょっと経ったときにはすでに気付いていたし、その他の生徒にも「ルルはドジな子」と認識されている。しかし重大なミスを犯しても実験で大失敗しても、ルルには不思議な愛嬌があり、なんとなく「ルルだから仕方がない」で許されてしまうのだ。そんなルルの愛嬌はラギにとっても好ましく、結局は他と同じく「ルルだし仕方ねーか」で許してしまうのだ。
ラギの性質は本来、世話焼きである。荒削りな口調と己の感情を隠そうともしない態度のせいだろうか、荒っぽい、怒りっぽいと誤解を受けやすいが、一度打ち解けた相手には全幅の信頼と親愛を寄せる。そして相手にもよるのだろうが、どうにも他人を放っておけない性質である。特にルルのようないわゆる「ドジ」に対してはその傾向も顕著だ。それはラギにとってルルが庇護すべき年下の少女であり、加えてあまり女を感じさせない、対等な存在であるということも関わっているのかもしれない。
ルルといるときのラギは常に上機嫌というわけではない。むしろ、不機嫌であることの方が多いだろう。それでもラギとルルが一緒にいることが多いのは、なんだかんだで互いに足りないものを補助し合っている、パートナーとしての関係が自然に成り立っているからなのだろう。傍から見れば仲の良い幼馴染のようであり、恋人を案じる男のようであり、兄を慕う妹のようでもある、なんとも表現し難い関わりであったのだが。
どこかの教室から灰色の煙がもくもくと出ていれば「またルルが失敗したのか」と思い、視界の端にルルを捉えたなら「教科書を落としはしないだろうか」とその華奢な後姿を目で追い、名前を呼びながらこちらに駆けてきたなら「また転ぶんじゃねーだろうな」と恐々としつつも立ち止まって待つ。全くつまらないと思っていたミルス・クレアでの日常はルルという存在で春を迎えるように色を帯びたが、ラギの思考はそこまで己の深層には至らず、ただ「世話の掛かるやつが増えた」とため息を吐きたい心地になるだけであった。
対してルルはラギのことを「仲の良い友人」と理解しているようで、しかし不機嫌な声と共に炎が上がれば「ラギ大丈夫かなぁ」とラギの腹の様子を案じ、廊下で友人達と談笑するラギを見かければ「今日はちゃんと授業に出てるのかも」とこっそり微笑み、退屈そうな炎の色をした双眸を見つけたなら「笑ってる方がラギらしいのに」と駆け寄っていく。考え方や態度はラギのルルに対するそれに酷似しているが、しかし考えの幼いルルはそれに気付くことはない。
その日もまた、ルルとラギは連れ立って次の教室に移動していた。ルルが転入してきて一月ほど経ったあたりからだろうか、この時間のこの授業は同じだから一緒に行こうと約束したわけでもなく、どちらがどちらかを誘ったわけでもなく、なんとなく、二人は移動を共にするようになっていた。大きな石の柱に背を預けるラギを見つけて蜜色を細くするルルに、ラギは照れたようにふんと鼻で笑い、早く行くぞと一歩先を歩いた。それが一番最初だった気もするが、定かではない。
それまであった出来事を嬉しそうにわざわざ報告するルルに、ラギは頷いたり、時々呆れてみたり、多くは笑ったりしながら逐一それを聞いていた。その報告の数々も多くが下らない、取るに足らない日常に転がっているものだったが、ルルがあんまり楽しそうに話すものだから、ラギにもそこら辺の小石すら宝石の原石であるかのように思えてしまう。それはルルが持つ一種の魔法だと言っても過言ではないように思えた。
次に二人を待つ授業は実習系である。魔法を使えないラギにとっては退屈極まりないものだが、如何せんルルのとんでもない失敗がいつ飛び出すかも分からないため、抜け出してどこかで昼寝をすることもなんとなく憚られた。それは最早使命感としてもいいのかもしれない。
この日は嫌な予感がしていたのだ。朝から憂鬱だった。それはただ単にルームメイトのビラールがまた匂いのきつい香を焚いていたせいかもしれなかったが、ともかくラギは良い予感がしなかった。占いなど不確定的なものは信じない性質だが、今日はきっと災厄の相が出ているだろうと思ったのだ。野生の勘とでもいうのだろうか、ラギのそういう予感は、高確率で当たる。
教室の隅で欠伸をしていたラギは、律が甘い、と竜の瞳孔を持つ目を細くした。視線の先では、ルルが祖母の形見だというクラウンを飾った杖を翳し、火の呪文を唱えている。横顔がだんだんと険しくなり、その声にも焦りが見えるが、ここまで唱えてしまっては今更引っ込みは付かない。
ざわめく生徒達と慌てるエルバートを押し退け、ラギはルルの方へ駆けると、発動の直前に杖の先に灯った魔法の光を握りつぶした。僅かに噴き出した黄昏色の欠片がラギの指の隙間から零れ、じゅ、と音をたてた。それにラギはほうと息を吐いて、ゆっくりと肩の力を抜いた。ルルは目を丸くして魔法の掻き消えたラギの拳を見つめていたが、やがて泣き出しそうなほどに顔を歪めて、ラギの安堵したような双眸を見上げた。
「おい、怪我してねーか?」
「あ、ら、ラギ、手が……」
「ああ? このくらい、なんともねーよ。あのまま爆発するよりマシだろ。で、怪我は?」
「してない」
「ならいいって、不細工な顔してんじゃねーよ」
ラギは魔法を握り潰した右手を下げ、左手でルルの髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。ルルは俯いて、大きな目に溜めていた涙を一粒だけほろりと落とした。泣いてんじゃねーよとからから笑うラギの声に、ルルはきっと目に力を込めてラギを睨んだ。なんだよ、とちょっと顎を引くラギの右手を引っ掴み、握られた手のひらを無理矢理に広げた。案の定、少しの焦げ跡が皮膚に残されていた。
「やっぱり!」
「だから、別にこんなもん、なんともねーって」
「嘘! だって、すごい炎だったもん。私が失敗した魔法なんだから、そのくらい分かるよ!」
また泣いてしまいそうなルルにラギは面倒臭いなとこっそりため息を吐いて、そっぽを向いた。多くの魔法生物の頂点に立つドラゴン族の中でも特に炎を操り、炎をつかさどる全ての者を従える火竜の血を持つラギにとって、先ほどの火炎などはどうということはない。手のひらに残る焦げた跡も、魔法で受けたものならばすぐに治癒するだろう。ドラゴンの魔法耐性はルルが思うより遥かに強大だ。けれどルルはその取るに足らない傷にすら涙を零すから、なんだか照れてしまって、ラギはもう一度ルルを見ることに戸惑った。
ルルは暫く俯いて黙っていたが、また顔を上げると、今度はラギの左手を掴んで、未だおろおろと落ち着かないエルバートを半ば睨むように見た。
「エルバート先生! 私、ラギを医務室に連れて行ってきます!」
「はぁ? おい、なに勝手なこと言って」
「ラギは黙ってる! じゃあエルバート先生、行ってきます!」
「は、はい。それとルルさん、医務室ではなくヴァニア先生のところに行った方が……」
「はい、分かりました! ありがとうございます!」
ラギの左手を引いて駆け出すルルを見送り、エルバートはほうとため息を吐いた。ざわついた教室内の空気をどう鎮めるか、なんとも頭が痛かった。
足音をたてず、しかし普段よりずっと早足で歩くルルに手を引かれ、ラギは視線を泳がせて頭を掻いた。手のひらにある焦げ跡は皮膚が焦げたわけではなく、魔法を防ぐ薄い膜が僅かに焼け焦げただけなのだとラギは何度か説明したが、聞く耳を持たないルルにほとほと参っていた。歩いていく間に、自分はともかくルルは授業を受けなければまずいのではないか、とか、あんな派手な行動をして妙な噂がたたなけれないいけど、とか、ああやっぱり今日は嫌な予感がしたのだ、とか、色々と考えたりしてみたが、やっぱり心配してもらうことが嫌なわけはなく、握られた左手の温もりに僅かに頬を染めた。
結局、ヴァニアの元まで引っ張られてきたラギは逆らっても面倒なので大人しく手のひらを差し出したが、そこに火傷や異常が見られるわけはなく、ヴァニアは弾けた果実のような赤い唇を三日月にしてくすくす笑った。
「ルル、心配なのは分かりますけれど、ラギは火竜ですのよ? あなたの魔法が失敗した程度の火力では、火傷のひとつも負わせられませんわ」
「そうなんですか? なら、ラギは大丈夫なんですか?」
「ええ、なにも心配いりませんわよ。授業を抜け出してきてしまったほうが、ずぅっと問題ですわね」
「うっ、すみません」
縮んでしまうルルを横目で見て、ラギはため息と共に「だから、大丈夫だって言っただろーが」と吐き出した。その言葉にますます縮んでしまったルルの頭のてっぺんあたりをやや乱暴に撫でて、仕方ねーやつ、と笑った。それを見て、ルルもつられてちょっと笑った。
失礼しました、と深々と頭を下げて部屋を出るルルを見ながら、やっぱり仕方ねーやつ、と思い、ラギはすこしルルの浅慮と無知を嘆いたが、それこそルルの愛嬌だと気付き、苦笑した。そういうのを放っておけないのがラギの性分であり、許されてしまうのがルルの美徳だった。
廊下を並んで歩くと、二人分だけの足音がカツカツと乾いた石の上を滑る。歩幅の違いからラギより多くなるルルの靴音に足を遅くしようとして、止めた。
「授業なくなっちまったなー。これからどうすっか」
「うん、本当にごめんね」
「そういうこと言ったんじゃねーよ。ああもう、今日は午後の授業ねーし、寮帰って寝るかな」
「あれ、ラギも今日の午後ないの?」
「なんだ、お前もねーのか」
「うんうん! じゃあさっきの分も取り戻すために、ふたりで勉強しよう!」
「はぁ!? ふざけんじゃねー、やってられるか!」
「私のせいでラギが授業受けられなかったんだから、お詫び!」
「食いモンでよこせ!」
「いいから!」
そんな問答が暫く続き、結局は根負けしたラギが図書館に引っ張られて行ったのだが、不機嫌そうに精悍な印象を与えるつり気味の目を細くしていても、良く知った者から見ればラギは満更でもなさそうな顔をしていた。
今日は朝から憂鬱だったのだ。嫌な予感がしていたのだ。しかし、ルルの花の綻ぶような笑顔を見ていたら、ラギはなんだかもうどうでもよくなってきてしまって、ルルの不思議な光を持つ甘い飴色の双眸を見た。視線に気付いて、ラギの炎の目を見返し小首を傾げるルルに、ラギは照れ隠しのように桜色の髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。
「やっ、ラギ、髪解けちゃう!」
「あーあー、ドンマイ。また結べばいいだろ」
「もう!」
憂鬱なことなどひとつもないのだ。ルルが笑っているなら、世界の憂鬱なんて全て消し飛んでしまう気がしたのだ。ラギはほら早く行くぞ、とルルの手を取り、さっさと歩き出す。目を丸くしたルルに「勉強するなら図書館、だろ?」と言うと、ルルは目一杯に笑って「うん!」と返した。また並んで歩き出すが、ラギが捕まえた手を離すことはなかった。
しかして後日、ラギの憂鬱と予感は予期せぬ形でラギの前に立ちふさがる。
数日過ぎたころだ。談話室はなにやらの噂で持ちきりだった。噂話に興味はないラギはさっさと自室に戻ろうかと思っていたのだが、不意に耳に飛び込んできたいただけない一言に思わず足を固めた。
「ウィリアム、今の話、なんだ……?」
「ああラギ、丁度いいところに! アルバロから聞いたんだけど、この前のエルバート先生の授業でお前、ルルを業火から身を挺して守ったって本当か?」
「……アルバロ?」
「そう、アルバロ。たまたまその授業受けてたらしいんだけど、お前カッコイイことするじゃないか! しかもその後、医務室でルルに看病してもらってたんだろ? 羨ましー」
「アルバロの野郎、燃やす!」
「あ、ちょ、ラギ!」
剣を片手にアルバロを追い回すラギの姿が幾度も目撃されたとか、そうでないとか。